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摩天楼まで | Newsletter No.006

 
    - Breakfast at Tiffany's 11 -
     摩天楼まで。
 
 
 

■ NYについて触れる時、結局は1920年代から30年代にかけての狂乱と、大恐慌を背景にしなければならないのだろうという感触を私は持っている。
 例えばクライスラー・ビルの完成は1930年。
 直後にエンパイヤ・ステート・ビルが完成するが、そのときは1929年の「暗黒の木曜日」以来の未曾有の株価低落は既に始まっている。
 
 
 
■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。
 JAZZエイジと呼ばれるそれである。
 失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
 そして1929年の大恐慌がくる。
 この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
 30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
 市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。

甘く苦い島 - Insula Dulcamara | Newsletter No.006

 
    - Breakfast at Tiffany's 12 -
     甘く苦い島 - Insula Dulcamara
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の設定が1943年。
 そのときホリーは20歳になったばかりだった。
 カポーティは作中で暗示するにとどまるが、ホリーは1930年代の不況に家族が離散した後取り残された白人小作農家の子供である。
 訳者の龍口氏はそれを「捨て子」と表現しているが、そこに親の意思があったかどうかは定かではない。
 弟は軍にゆくしかなく、その後戦死する。
 そして姉はと考えてゆくと、なんのことはない。
 例えば日本でも昭和初期、冷害のために身売りをせざるを得なかった東北の娘達と随分のところで重なっていることに気がつく。


■「ある晴れた朝、目を覚まし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね」(前掲:58頁)

月の河 | Newsletter No.005

 
    - Breakfast at Tiffany's 9 -
     月の河。
 
 
 
■ 美人は10年しかもたない。
 ということを誰かが書いていた。
 エリオットの詩集でもめくろうかという気にもなる。
 
 
 
■ オードリー・ヘプバーンは1993年1月20日午後7時、癌のために亡くなった。
 晩年はユニセフの国際親善大使として、アフリカ奥地で精力的に活動し、その名声を第三世界の飢餓の救済、その広報活動に費やした。
 とは言っても、いわゆる南北問題を社会・政治的な立場から語った訳ではない。
 存命の頃の映画雑誌などを見ると、オードリーは貴族の血を引いていることが強調されている。「ローマの休日」で一躍世界にデビューした彼女には、そういう物語が必要だったのかも知れない。

冬の結婚式 | Newsletter No.005

 
    - Breakfast at Tiffany's 10 -
     冬の結婚式。
 
 
 
■ このところ会合が続き、薄い疲れが溜まっている。
 先週までまだ青かったこちら側にある銀杏が急に色づき、もうじきばらばらとその実を落とす音が響くだろう。隣接したところにある教会で、今日も誰かが挙式をあげていた。
 さてNYはといえば、随分寒くなっているに違いない。
 
 
■ 「ティファニーで朝食を」の原作の中で、カポーティはヘミングウェイの名前を出していた。
 いわゆる第一次大戦後の「ロスト・ジェネレーション」を意識し、ある面ではそれを継承しているともいえるが、元々映画化のための作品でもあったから、半分はからかっているようなところもある。
 文学史では有名な話だが「失われた世代」という呼び方は、ガートルード・スタインという女性が命名したことになっている。
 彼女は広い意味でのパトロンヌで、パリに遊ぶ作家達のサロンの中心・女王的存在であった。
「You are all a lost generation.」
 パリにいたヘミングウェイ達に向かって「あなたたちはみんな、失われた世代なのよ」と言ったことになっていて「陽はまた昇る」(1926)の序文にはそう記載されている。

融ける雪のように | Newsletter No.004

 
    - Breakfast at Tiffany's 7.-
     融ける雪のように。
 
 
 
 
■ と、ここまで書いて、私はすこしうんざりしているようだった。
 十二月だからからも知れない。
 もっと軽く触れておけばよかった、という気もしないでもない。
 東京は銀杏が色づいている。
 神宮の辺りには、まだ、日のある時間に近寄ってはいなかった。
 外苑西通りの外れ、プラチナ通りと呼ばれるその辺りを広尾方面に下った。趣味のいい名前ではない。午後の日差しは金色であり、銀杏の背が思ったよりも高いことに気がつく。ビルの影になっている樹だけが、まだ緑色のままだったりした。
 一本違うだけなのにこうして差がつくのだ。と思いながら、車のガラスは汚れている。


■「こうなったのも、ただ悲しみが原因なんですよ」
 と、ブラジル人の外交官、ホセは言う。

ドライベルモット | Newsletter No.004

 
    - Breakfast at Tiffany's 8 -
     ドライベルモット。
 
 
 
■ NYの街角にはいくつものバーがあって、そこには一癖もふた癖もある親父がいるという。
 私は馴染んだことはないが、ヤンキーズの試合ならテレビで見た。
 彼らは雇われている訳ではなく、結構勝手にやっているものだから、その歳まで独身だったりすることもある。パリ解放と等しく、離婚していたのかも知れないが。
 1956年ジョー・ベルは67歳だった。
 ホリーがアフリカ、東アングリアにいたのかも知れないという噂を聞き、ポールを呼び出して作った酒が「ホワイト・エンジェル」である。パーティパンチとは異なる。
 ジンとウォッカだけでつくるのか、それでどうしろというんだ。
 
 
■ どうもしない。
 ただ酔えばいいのだという気分の時、マティニに入っているオリーブが邪魔になることが時々ある。
 ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」の中で、時間の経過をはかるのに、オリーブを刺してあった楊子を並べる場面があって、つまりはまあ、泥酔ですな。
 今回「ティファニーで朝食を」を再読すると、ところどころに酒と煙草、多くは葉巻だが、が効果的に使われていることに気がついた。

野生の馬 | Newsletter No.003

 
    - Breakfast at Tiffany's 5.-
     野生の馬。
 
 
 
 
■ 冬になると、ストーンズが聴きたくなる。
 新しいものではなく、いくつかのバラードの入ったそれで、低く流しながら表参道の交差点手前で信号を待っている。街はクリスマスの飾り付けで赤く、そして青い。
「WILD HORSES」という曲があり、イントロだけで十分な気がしていた。
 ストーンズの場合、イントロがほぼ全てというところもある。
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」でよく引かれるのが、「決して野生の動物をかわいがってはいけないわ」という台詞である。
 新潮文庫版の背表紙にはこんな風に書いてある。
 
「名刺の住所は『旅行中』、かわいがっている捨て猫には名前をつけず、ハリウッドやニューヨークが与えるシンデレラの幸福をいともあっさりと拒絶して、ただ自由に野鳥のように飛翔する女ホリー・ゴライトリー。原始の自由性を求める表題作(略)」
(1968年版:54刷より)
 
 映画の影響か、女性読者を意識した紹介文である。
 ホリーを高級コールガールとは決して呼ばず、「プレイガール」などと記している映画案内なども多い。訳者の龍口氏も解説の中でわざわざ一節をそうしたホリーへの評価について割いていた。

透明な子 | Newsletter No.003

 
    - Breakfast at Tiffany's 6 -
     透明な子。
 
 
 
■ カポーティは1924年に南部の町、ニューオリンズに生まれた。
「サンダーバード号で見た南部」という作中の書名はそんなところから来ているのかも知れない。NYでは一時ある種の遊び人として社交界に話題を提供する。
 本作は、マリリン・モンローをイメージして書かれたものだったという。
 マリリンも若くして一度目の結婚をしている。
 モンローといえば「バス停留所」などにもあるように、流れ者の気のいい踊り子という役柄がとても似合う。
 昔「鬼怒川マリリン」というストリッパーが日本にもいたという嘘もあるが、そのような伝説や亜流が生まれてもおかしくはない。
 日劇マリリン。北千住マリリン。
 遺作「荒馬と女」なども、そうした役柄だった。
 それらの個性は、手繰ってゆくとかなりの部分が彼女の生育歴から来ているものだが、ハリウッドやNYというのはアメリカの中でも特別な場所、ある意味でアメリカではないのだという指摘もあって、半ばはその通りかも知れないと私も思う。
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の原作にはこんな場面がある。
 ホリーと作家の卵ポールが南京町、つまりチャイナタウンからブルックリン・ブリッジをぶらぶらと歩き、夜景を眺めながらホリーが言う。
 
「今から何年も何年もたったあと、あの船のどれかがきっとあたし、いいえあたしとあたしと九人のブラジル人の子供を、またこのニューヨークへつれて帰ってくれるとおもうわ(略)あたしニューヨークが大好きなのよ。樹だって通りだって家だって、何ひとつほんとにあたしのものというわけじゃないけど、でもやっぱり、なんとなくニューヨークが自分のもののような気がするわ。だってこの街は、ぴったりわたしの性に合ってるんだもん」
(前掲:120頁)
 
 NYが自分のもののような気がする。
 という台詞は、この街の特質を正確にあらわしている。
 夢と希望、それからなんだろうか。

ホリー・ゴライトリー、トラベリング | Newsletter No.002

 
    - Breakfast at Tiffany's 3.-
     ホリー・ゴライトリー、トラベリング。
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の映画が封切られた1961年は、J・Fケネディが大統領に就任した年である。
 映画にも小説にも直接関係はないが、どんな時代だったをすこし書いてみる。
 61年4月、CIAが組織した亡命武装ゲリラ1400名がキューバのビックス湾に上陸。
 首都ハバナから90マイルのところにある入江である。
 そこからゲリラ戦を行いカストロ政権を転覆しようとするが、失敗。
 三日で鎮圧される。
 当時ケネディは、キューバに侵攻する計画をマスコミの協力の下、国民には知らせていなかった。
 東西冷戦最大の危機、全面核戦争の手前までいった、いわゆる「キューバ危機」は翌62年10月。このビックス湾事件は、その前哨戦としての位置づけになる。
 
 
 
■ 話は飛ぶが、ヒッチコックの「北北西へ進路を取れ」も、冷戦構造を前提とした映画であった。ヒッチコックにはダブル・スパイのブロンド美人という設定が多い。
 しかも敵方の情婦であるという、いささか屈折した役柄が与えられ、大人というのは一筋縄ではいかないと私などは思っていたが、後から考えるにこれは、ヒッチコック特有の資質ないしは嗜虐であるともいえる。
 今微妙に思い出すのは、個室付の寝台特急で、ケーリー・グラントがヒロイン、エバァ・マリー・セイントの鞄を点検する。

サンダーバード号で見た南部 | Newsletter No.002

 
    - Breakfast at Tiffany's 4 -
     サンダーバード号で見た南部。
 
 
 
「私はいつでも自分の住んだことのある場所、つまり、そういう家とか、その家の住所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った」
(「ティファニーで朝食を」新潮社文庫版:龍口直太郎訳:9頁)
 
 
 
■ すぐれた小説というのは、その書き出しで決まる。
 というよりも、ほんの数行で独特の世界に引きずりこんでしまうものである。 覚えているのはいくつもあるが、例えばチャンドラーの「さらば愛しき女よ」という中篇の出だしは確かこうだった。
「セントラル街には、黒人だけが住んでいるのではなかった。白人もまだ住んでいた」
 微細なところで違うかも知れないが、ほぼそういうことにしておく。
 例えばNYのハーレムが、1658年に作られた人口85万人の白人のための街、都市だったものが、次第に黒人やスパニッシュが集まって住むようになり、街の性質と外観が変わってゆくといったことを踏まえて読むと、成程そうしたことかと雰囲気が伝わる。
 東京もそうだが、都市というのは動いているものだからだ。
 
 
 
■ 東七十丁目というと、イースト70。
 真ん中にセントラル・パークを挟んでのアップ・タウンである。
 近くにはホイットニーやフリック美術館がある。
 マディソン街を抜けてゆけば、ティファニーまではそう遠くもない。
 原作でも、この辺りは高級アパートとして描かれている。現実にはそうでなくても、NYでは所番地がある意味を持つのだった。
 ブロックを下ってゆくに従って、あるいは通りを一本左右に逸れただけで、歩いているひとたちの肌の色と服装が異なる。場合によっては言葉もそうだ。
 映画の冒頭で、ヘプバーンはNYのタクシー、イエローキャブから降り立ってくる。
 早朝だ。原作の小説にこのシーンはない。

太陽に暖められた石 | Newsletter No.001

 
    - Breakfast at Tiffany's 1 -
     太陽に暖められた石。
 
 
 
■ カポーティの「ティファニーで朝食を」(新潮文庫版:龍口直太郎訳)を、ぱらぱらと読み返している。
 確か17くらいの頃、サガンか何かと並んで一度読み、それ以来忘れていた。
 大人ぶっていたとしても、思春期の少年にはまだ早かったのかも知れない。
 映画を観たのは劇場ではなく、深夜のテレビだった。
 なすすべもなく週末を送る、20代後半の夜だったような覚えもある。

「1943年10月のあの月曜日。鳥の軽々と舞うにも似た美しい日。
皮切りに、私たちはジョー・ベルの店でマンハッタンを飲んだ。
それからジョー・ベルは私の幸運を聞かされるとシャンパンをおごってくれた」(前掲:78頁)
 
 
 
■ こう書き写していても、リズムがあり分かりやすく、情景が浮かぶかのような文章である。
 つまり、いい訳だということなのだが、これは主人公の売れない作家の原稿が始めて活字になり、ホリーとお祝いのデートをする場面である。
 映画は、ホリー・ゴライトリーに、オードリー・ヘプバーン。
 小説の「私」こと作家の卵、ポール・バージャックに、ジョージ・ペパード。
 公開は1961年、オードリーが32歳の時の作品であった。

トイレで50ドル | Newsletter No.001

 
     - Breakfast at Tiffany's 2 -
      トイレで50ドル。
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」のヒロイン、ホリーは高級娼婦である。
 マリリン・モンローのエージェントがホリー役を断ってきたのはそのせいだという話もある。
 確か当時のモンローは、今までのセクシーな役柄から脱皮しようと暗中模索の最中だった。アクターズ・スタジオで演技の勉強を始めたりしている。
「BUS STOP」はその後の作品になる。
 
 
 
■ 数年前だったろうか。マリリンの始めの頃の夫が撮影したという写真の版権をどうにかしたいという話が私のところにきた。